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上杉謙信が実は女性だったと噂される5つの説

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FGOの長尾影虎可愛い

 

どうも進撃の期間工です!

 女性説が根強い戦国武将としてあの越後の虎と呼ばれ武田信玄と何度も川中島で激闘を繰り広げた上杉謙信という武将をご存知ですか?

 

なぜ、戦国武将の中でも最強とも言われる実力者の謙信が実は女性だったのではないかと言われているのか気になりまよね

 

今回は、そんな上杉謙信が女性だったと言われる説を5つご紹介いたします!

 

目次です!

 

 上杉謙信とはどんな人物か

 

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「越後の龍」また「毘沙門天の化身」などと称される上杉謙信は越後(現在の新潟県上越市)の武将です。

 

長尾為虎の一番弟子の男子として1530年1月21日に越後で生まれ、虎千代という幼名でした。

 

また、母は虎御前で信心深かったと記録されています。

 

そんな謙信の幼少時は林泉寺で禅の修行を行い、ここでの禅修行により生涯にわたり深い信仰心を持っていたと言われています。

 

そして19歳の時に兄に代わり長尾家を引継ぎ、長尾景虎と名乗りました。

 

その後、上杉家から家督を譲られ、上杉政虎、そして上杉輝虎と名乗り、

 

その後、改名し、私たちのよく知る名前「上杉謙信」となりました。

 

ちなみに「毘」の旗印の文字は毘沙門天です。

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毘沙門天は戦の神様と言われ、信仰心の厚かった上杉謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じており、

 

家臣にも自分を毘沙門天の化身として見るように言っていたそうです。

 

また上杉謙信はこの時代の武将としては珍しく、生涯独身でした。

 

毎日、勤行していたと伝えられ、信仰心は本物であったと考えられているので

 

信仰の妨げにならないよう結婚しなかったという説があります。

 

その説を裏付けるように実は謙信の子供は全て養子です。

 

そんな信仰心の強い上杉謙信ですが、戦国の名将が多数輩出した時代に生き、

 

織田信長北条氏康武田信玄などと戦をしています。

 

ただ、上杉謙信の戦いは領地拡大をいったものではなく、義を重んじたものだったと言われており、

 

頼まれて戦に出たり、救援要請に応じたり、武将よりも僧のような一面があったとされています。

 

そんな謙信は1578年に倒れ急死したのですが、死因は脳卒中脳出血ではないかと言われています。

 

女だったという説が出てきた理由

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上杉謙信が実は女だったという説があります。

 

まず、戦国時代の武将としては珍しく、生涯独身であったこと。

 

そして毎日腹痛を起こしていたと言われており、それが生理痛だったのではないかということなどがあります。

 

更に、外国人が記載した報告書で、上杉謙信は「叔母」として報告されています。

 

いくら外国人でも性別は間違えませんね。

 

こうしたことから、実は女だったのでは?と言われているのです。

 

上杉謙信女性説1・生涯独身・生涯不犯を貫いたから?

やはり、生涯独身だったというのが大きいでしょう。

 

ただ、結婚しなかったというのではありません。「生涯不犯」を貫いたということです。

 

いち生涯、女性と交わっていないということです。

 

当然、実子もいませんし、隠し子もいませんので、家督を継がせるため、養子も貰っています。

 

信仰心の厚さから、という説が強いですが、戦略結婚も多く行われた戦国時代に異例の武将です。

 

上杉謙信女性説2・毎月の腹痛・それは生理痛だった!?

 

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毎月、腹痛を起こしていたという記録が残っています。

 

しかも10日前後と決まった日だったと言われています。

 

戦の最中でも陣を引き払い、城にこもっていたと記録されています。

 

戦国武将が腹痛で城にこもる、なんとも不自然ですよね。

 

「松平記」にも6月11日に北条軍が攻めてきて危うい時にも、

 

なんと腹痛で城に引きこもり、10日ほど出てこなかったと記録されています。

 

日付までしっかり残されているのですが、普通毎月腹痛など決まった日に起こしませんよね。

 

ですが、これが「生理痛」であったというのなら合点がいきます。

 

上杉謙信女性説3・死因「大虫」の記録

上杉謙信の死因として、脳卒中脳出血の記録もあるのですが、「大虫」という記録も残っているのです。

 

その記録とは、松平忠明が記した文献「当代記」で「越後景虎四十歳歿、大虫という」と記されていました。

 

大虫とは「婦人の地の道を起こす」という意味で婦人病や更年期障害をさしているとのことです。

 

しかも3月9日(3月11日の説もあります)にトイレで倒れ、13日に死亡したとなっています。

 

そして本来は、関東へ出陣する予定でその予定は日は15日となっていたというのです。

 

毎月10日前後に生理があり、出陣予定を15日に組んでいたというのも、

 

生理になって落ち着いたころに出陣、と考えればスケジュールとしてもちょうどいいですね!

 

そして大虫で死んだとなると女性と呼ばれてしまうので死因を脳卒中脳出血としたのなると自然な流れです。

 

上杉謙信女性説4・スペイン国王への報告書に「叔母」として記載されていた!

スペイン人のゴンザレスという人がスペイン国王フェリペ2世への報告書を残しています。

 

この時代、スペインは無敵艦隊で大変強い国でした。

 

このフェリペ2世は日本に金山探し、キリスト教の布教を目的として、スペイン人を派遣していました。

 

その中の一人がゴンザレスです。

 

ゴンザレスの報告書の中に「会津上杉景勝は、Tia=叔母の開発した佐渡の金を持っている」との記載があるのです。

 

スペイン語であれば叔父であればTio、叔母であればTiaとなります。

 

この報告書ではTiaと書かれているので叔母となります。

 

また上杉景勝とは、上杉謙信の姉の息子です。

 

謙信は男の兄弟は義兄弟も含め、たくさんいるのですが、姉妹は1人しかいないのです。

 

そのため「叔母」とは上杉謙信をさしているのではないかと言われているのです。

 

上杉謙信女性説5・男も及ばぬ大力?まんとらさま

上杉謙信の城下、越後には女芸人が物語を弾き語るという「ごぜ唄」があります。

 

「白虫赤虫一二匹 まんじ巴とくるうなか とらどしとらずきとらの日に 生まれたまいしまんとらさまは 城山さまのおんために 赤槍たててご出陣 男も及ばぬ大力無双」

と唄われています。

 

この「まんとらさま」が上杉謙信のことをさしている。ということなのです。

 

ちなみに「まん」というのは、北条政子が「大政所」(おおまんどころ)と呼ばれていましたが、

 

「政」の「まさ」がなまって「まん」となっています。

 

この「まん」とらさまの「まん」は、上杉謙信上杉政虎と名乗っていた「政虎」に繋がります。

 

政(まん)虎(とら)様(さま)となるわけです。

 

ごぜ唄で「まんとらさまは、男も及ばぬ大力無双」

 

はっきりと「男も及ばぬ」と唄っています。

 

上杉謙信が男ならこんなことは唄いませんよね。

 

ここから、やはり上杉謙信は女性だったのではないかと言われているんです。

 

まとめ

ご紹介してきたように上杉謙信は実は女性だったのではないかと疑いたくなる説というのが調べれば調べるほど他にもたくさんあります。

 

身長についても6尺(180センチ)近い偉丈夫だったと言われていますが、

 

米沢城に残されている上杉謙信の腹巻もあまり大きくなく実は小柄だったのでは?

 

身長142センチくらいの武将だったのでは?とも言われています。

 

身長については戦国武将とは体が大きいと思われがちですが、

 

実際に残されている腹巻のサイズから考えた方がどこか信憑性はありそうですよね。

 

さて、知略にたけた勇猛な戦国武将、男性だと思っていた上杉謙信が実は女性だったと覆される日がはたしてくるのでしょうか。

 

謎は謎のままなのか、解明されるのか、今後の事実の発展に期待したいところですね!