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豊臣秀吉の生涯は伝説だらけだった!出世続きの秀吉の人生

 

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FGOは秀吉を実装するかと思ってた

 

どうも進撃の期間工です!

 豊臣秀吉といえば、大出世を果たした人物として有名ですよね。

 

また、秀吉の性格を表す、鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギスという言葉も有名ではないでしょうか。

 

そんな歴史に名を遺す秀吉ですが、本当の秀吉はどのような人物なのでしょうか?

 

今回は百姓から天下人となった秀吉の生涯やその人物像に迫っていきたいと思います!

 

目次です!

 

豊臣秀吉の幼少期

 

さて、誰もが知っているでしょうが、秀吉は天下統一を成し遂げた人物です。

 

昔の名前は木下藤吉郎でした。

 

そんな秀吉の幼少期、1537年頃生まれたと言われている秀吉は8歳の頃に寺に預けられましたが、

 

学問に勤しむことは無く、一日中槍術や剣術の真似事をしていたと言われています。

 

また「坊主はみな乞食だ」などと悪口も言いたい放題で、人間関係のトラブルも絶えず、

 

寺から追い出されてしまったという話があります。

 

結局、家に戻った秀吉は召使いに出されたりしましたが、どこに行っても長く続かず、家族からも呆れられていたんだとか。

 

あの秀吉にもそんな時代もあったのかと思うと何か意外ですよね。

 

一介の草履取りから信長に認められたエピソード

秀吉は22歳の頃、織田信長の草履取りをしていました。

 

草履を用意した秀吉に、信長は「貴様、俺の草履に腰をかけていたな!」と杖で叩きます。

 

秀吉は「腰かけておりません。寒いので草履を温めておくために、背中に入れて温めておりました」と言いました。

 

証拠を見せてみろと言われた秀吉は、服を脱ぎ、背中を見せます。

 

するとその背中には、下駄の鼻緒の跡がくっきりと残っていました。

 

それを見た信長は秀吉を気に入り、草履取りの頭にしました。

 

土木・建築に秀でていた

翌年、23歳の秀吉にチャンスが恵んできます。

 

信長の居城であった清州城の石垣が崩れたため、工事することになったのです。

 

20日かかっても進まなかった工事でしたが、秀吉に役目が与えられると、なんと2日で完成させたのです。

 

どのように短期間で完成させたかというと、180mの塀を作るために18mごとに責任者を置き、

 

その責任者たちを競わせたというのです。

 

この発想の凄さが秀吉の突出した才能を表している気がしますね。

 

そしてこれを見た信長は喜び、秀吉を役人に取り立てたそうです。

 

さらにその後、30歳の時には墨俣一夜城を建設していますし、

 

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↑ 黒俣一夜城

 

秀吉の立身出世の鍵を握ったのは、建築の能力に長けていたため、という説もあります。

 

こうして、秀吉は少しずつ信長に認められ、出世を果たしていくのです。

 

本能寺の変から天下統一へ

1582年、織田信長明智光秀に裏切られ、討たれてしまう本能寺の変が勃発しました。

 

この時、秀吉は中国地方で毛利氏と戦っていましたが、慌てて京都へ戻り、明智光秀を討ち取りました。

 

信長の遺体は見つからなかったものの、秀吉は本造を遺体と偽り、信長の葬儀を敢行し、

 

主君・信長の敵討ちと葬儀を果たし、織田家の主導権を握るようになります。

 

その後、順調に対立勢力を倒していきますが、徳川家康との戦いでは、敗北を喫します。

 

そこで秀吉は名門である藤原氏の養子となり、豊臣性を授かり、関白となります。

 

更に自分の母親と妹を徳川家に人質として差し出すことにより、徳川家康を臣従させる事に成功しました。

 

関東の北条氏と、九州の島津家を屈服させることに成功し、ようやく天下統一を果たしたのです。

 

天下人・豊臣秀吉の凄いエピソード

それでは天下人となった秀吉の行った凄いエピソードを2つご紹介します!

 

太閤検地の発行

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太閤検地とは、全国の土地のどこで、どれくらい米が収穫できているのか、ほぼ完全に把握したことをいいます。

 

時代劇などで、あの大名は100万石などと聞きますが、それはその太閤検地から来ているのです。

 

太閤検地をすることにより、石高制での権威付けができるようになりました。

 

これにより、土地の所有者をはっきりし、税の収入を安定させることが出来たのです。

秀吉の行った政治として画期的なものでした。

 

豪華絢爛な大阪城の建設

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秀吉は、大阪に豪華絢爛な難攻不落の城を建設しました。

 

主君であった信長の安土城をモデルとしながら、それを凌駕することを目指して造られた城です。

 

天守は外観5層となっており、鯱瓦や軒丸瓦などに黄金をふんだんに使い、

 

奥御殿の内部も金銀の装飾に溢れていたと言われています。

 

秀吉は、この城に多くの来客を呼び、自ら案内して回ったということですから、自慢の城であったのでしょう。

 

また、この豪華な大阪城は、天下への睨みを利かせ、見るものを圧倒し、

 

豊臣政権の強さを他の大名に見せつけるという役割も担っていました。

 

しかし、大阪城が完成したのは、秀吉の亡くなった翌年でした。

 

秀吉は、完成した大阪城を見ることが出来ず、更には秀吉の愛した大阪城豊臣氏滅亡の舞台ともなっています。

 

徳川氏により破壊されたので、現在私たちの見る大阪城は秀吉の築城した大阪城ではないのです。

 

現在の大阪城は、旧大阪城の破壊後に、徳川家が再建したものとなっています。

 

贅の限りを尽くした大阪城を見て見たかったですね。

 

豊臣秀吉にまつわる都市伝説

天下人であった秀吉にはいくつかの伝説があります。

 

その中でも意外と思うであろうエピソードをご紹介します!

指が6本あった!?

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何と秀吉の右手には親指が2本あったと言われています。

 

右手の指は6本だったという記録が残されているのです。

 

今でいう「多指症」ですね。

 

まず、前田利家の「国書遺言」では、「太閤様の右の手には、指が一つ多く6本あった」と書かれています。

 

また、イエズス会の宣教師として日本に来て、キリスト教の布教に尽力したポルトガル人の

 

ルイス・フロイスが記録した「日本史」にも、「片手には6本の指があった」とはっきりと記されています。

 

ちなみにこの「日本史」は、秀吉について他にも「身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、性格は最悪に尽きる」とも書かれています。

 

ただ、フロイスと秀吉の関係は悪かったとのことなので、この指が6本というのが本当のことなのか、

 

誹謗中傷を目的としたものなのかは定かではありません。

 

皆殺しも躊躇しない。落書き事件

たかが落書きも、秀吉の手にかかると皆殺し事件となってしまいます。

 

ある日、秀吉の家の門に、秀吉の悪口の書かれた落書きが発見されました。

 

これを知った秀吉は大激怒し、犯人を殺すのかと思いきや、

 

まずはその門の警備を担当していた17名の耳を切り落とし、鼻を削ぐという残虐な方法で処刑。

 

その後犯人が見つかりましたが、犯人はもちろん匿っていた人たちもまとめて処刑しました。

 

それでも怒りが収まらない秀吉は犯人を匿っていた家を破壊し、町ごと焼き払い、

 

さらには 落書きに関係のない町の住人を60名以上も処刑したというのです。

 

鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギスというイメージからは程遠い、恐ろしい秀吉のイメージが分かるエピソードですね。

 

将棋の王を作った!?

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将棋の駒である王を作ったのは秀吉であると言われています。

 

そもそも将棋は古代インドの遊びから発展し、中国から日本に伝わってきたものですが、

 

玉と書かれていた駒を、「玉」より「王」の方が一番偉い駒として最適だろうと変えたという事です。

 

また、「王」は二人もいらないということで、「王」と「玉」になったとのこと。

 

今でも使われている将棋の駒にも、秀吉が関わっているなんてビックリですよね!

 

さて、百姓から天下人まで異例の出世を遂げた豊臣秀吉のサクセスストーリーはいかがだったでしょうか?

 

政治家としての優秀な一面や、残虐さをうかがわせる事件、様々なエピソードをお伝えさせていただきました。

 

天下人となった秀吉の国造りはこうして今の日本に続いていくのですね。